院生ハードラーの雑感

院生ハードラ―が比較的真面目につぶやきます。どうぞお付き合いください

2019年振り返り

あけましておめでとうございます

皆が2019年を振り返ったりしているのを見て自分も振り返らなければなぁ、、と思っていたけど年末年始は何やかんやで時間がなく断念、遅れてやっと書き上げた。

 

最近読んだ論文でいいのがあった。

Prefrontal Cortex regulates Sensory Filltering through a Basal ganglia-to-Thalamus pathway. 

こないだMITのHalassa labから出ていた。Halassa labはコンスタントに毎年CNSに通していてすごいなーと。

大脳の前頭前皮質(PFC)から線条体(str)などを通り視床へと投射するパスウェイがどのモダリティを選択するか(Sensory Filtering)を決定しているという事で。

実際、パスウェイ中の領野をオプトジェネティクスで操作してやると情報を得たいモダリティ以外の情報をPFCからのトップダウン投射が殺しているという結果。

結果がもちろん素晴らしいのだけど、このタスクがえげつないなと。普通のAudio discriminationタスクでさえマウスに学習させるのは大変なのにそれだけじゃなくvisual discriminationも組み合わせ最後はCuedとuncuedも用意してる。すごい。

おまけに記録電極も128channelと化け物(自分は32channelで苦しんでるというのに)、アセンブリする作業を考えるだけで気が滅入ってきそう。

ファーストオーサーは日本人の方で中島さんという方らしい(日本人がいるとやっぱりなんか嬉しい気がする)。Twitterでボス(Halassa)がすごく手を動かすと呟いておられた、それも凄いなぁと。

 

さて話を戻すと

2019年を振り返って成長したことを考えてみたら、やっぱり2019年は自分にとって

言語化まで考える癖がついた」

年だったかなぁと。何となく明確なターニングポイントがあった気がするけどそれについては後程。

今年はとにかく色々試してはやめてと言う感じだった。新しいことに挑戦したり諦めたりしながら前半は、とにかく何かやるべきことをバチッと決めて後はそれをやるだけ、みたいな状況に持っていきたくて仕方なかった。

研究においては、論文を読む本数であったりディスカッションの頻度であったり、陸上においても成長できる絶対的なスキームを組もうなどと思ったりしていた。

そんなこんなで失敗しながらやっていくうちにふと思ったのは、何かをルーティン化するっていうのは意外とラクだけど、本質的にはあまり意味がないなと思った。

もちろん、継続に意味はないというわけではなく「行為そのもの」の継続にはあまり意味がないのかなと思った。

 

それで春あたりから考え始めたのは、ルーティン化と言う方法では効率化できない、結局は考え続けるしかない状況で自分が考えたりしたことを最大限活かすにはどうすればいいのかな?と言うことだ。

その答えが「言語化まで考える」ということ。

言ってることは当たり前すぎる事で、インプットするときにアウトプットまで考えようという事、ただそれだけ。

ただそれだけなんだけど、自分にはできてなかった。だから夏ごろからはとにかくアウトプットを意識して日々を過ごした。

きっかけは多分だけど、関西インカレで二部に落ちた時。

激しく落胆したし、自分に対しても失望した。ただそれ以上に、ここからどうやったら1部常連校に駆け上がれるのだろうか?自分の競技力を上げる以外に、チームの底上げに貢献できないものだろうか。

その場その場でのアドバイスも、もちろん大事だ。けどそれでは足りない、自分の考えた事思った事を、後輩に共有して後輩が後輩に共有していく。そうやって受け継いでいく濃さを高めるしかないのではないか。そう考えた結果が上の言語化だったわけだ。

練習では議論を増やしたつもりだし、セミナーでは今まで以上に発言するように心がけたし、日記も1日もサボっていないし書く日は10ページくらい書いたりする(最近は英語で書いている)。最近だけどTwitterのアカウントも情報収集用を作り引用リツイで意見を発信するようにしようと思っている。ブログもまぁ細々とやっている(笑)最近気づいたが、ディスカッションの量も明らかに増えた。

前は朝イチと夜帰る時にちょこっとディスカッションする程度だった日もあったが、今では考えられない。

 

そして、これも言語化の影響かもしれないけど、意識が外向きになりいろいろなことにアプライすることにためらいが無くなった。

 

きっかけは間違いなくアメリカの大学院を本気で探し始めた時だったように思う。最初は応募がかかっていた研究所にメールを1通送るのに1週間かかった。受かる前からいらぬ心配をしていたのだろう。

この性格が受験を不利にしていたことは言うまでもなくて、TOEFLもなかなか踏ん切りがつかず受けられなかった。結局グダグダしながら受けた初受験、90点くらい余裕だろうと思ったら88点だった。ここで焦って勉強を始めた。

そんなある日、研究室のOBで今アメリカで独立されている方が帰ってきており、ありがたいことに時間を作って話をして下さった。

ここで重要なことに気づいた。僕がやろうとしてること、行き先候補のラボを伝えると、大いにダメ出しを食らったあと、最後に「もう少し調べよう」と言われた。

自分なりに色々頑張っていたつもりだったが、とんだ思い違いをしていたことに気づいた。もっと注意を払うべきところがあった。自分の視野が狭くなっていたことに気づかなかった。恥ずかしさと悔しさでどうしたらいいのかしばらく悩んだ。

これはまだ奮闘中で、本当にどうすればいいという答えは見つかってない。

取り敢えずまずはコンタクトを見直した。もっともっとディスカッションする能力が無ければ能動的にコンタクトは取れない、ディスカッションありきで論文を読もうと思い立ち奮闘中だ。

 

ここまで書きながらふと思ったけど。

後輩に伝えていくために、言語化ありきで物事を考えようと日記を継続するようになった6月ごろの自分と、この時の自分が同じことを考えてるよな。

成程、もしかしたらまた気づかぬ内に行為だけの継続になっていたのかもしれない。

 

まとめると、2019年は自分的には色々成長できた1年だったとは思うけどほとんどが失敗に終わって、総じてアウトプットに苦しんだなぁと思う。

2020年は言語化をもっとキレイに出来るようになり、

挑戦を実らせる年にしようと思う。

アウトプット

アウトプットとして何となくブログを始めたけど、最近はあまり適当な方法ではないような気がして何となく筆が止まっていた。

 

紙媒体でつけている雑記は相変わらず書いているが、2ヵ月前くらいから英語で書いている。勿論思考の整理を英語で行えるようにするのが狙いで、まだ2ヵ月だけど英語のセミナーをメモを取りながら聞くのが随分楽になった気がする。

 

日記は朝か夜か、いつつけるべきかと言う議題がよくあるみたいだが、自分はもっぱら思いついたりふと考えたことを殴り書きするような用途で使っているので、答えは何時でも。

 

さて、こういったこともしているし、セミナーや勉強会、論文での情報収集にもかなり気を割いている方だとは思っていたのだが、どうやら不十分らしいことに最近気づいてきた。

 

先日のセミナーでこれまでやってきた仕事のまとめを話した。ラボの大きな流れとは異なり、少し込み入った計算も多いので、分かりやすく話すのが苦手な僕は毎回苦労する。何とか説明して次の実験のプランを少し話した。

セミナーが終わったあと助教に次の実験について、面白くなさそうだと率直な感想をいただき、言葉には出さなかったが他のスタッフも同様の感想だったように思う。

今年のDC1を当てれなかったこともあり薄々感じていたことだったが、アイデアをある程度の形にするのが苦手らしい。

 

思えば、アウトプットと言いながら自分の思考をちゃんと纏めたことがあったか、思いつきを書きっぱなしになっていなかったか、セミナーは聞きっぱなしじゃなかったか、論文は読みっぱなしじゃなかったか、猛省。

 

そういえば最近どこかのPIが「PIになりたければ常に研究アイデアの100個くらい持っておけ」とか言っていて、雑記帳の殴り書きしたメモをwordに叩いてみると案外結構な数がある、ように見える。

それぞれの思いつきにWhy? とHow? を足してみるとグンと数が減った、まあこんなものか。

 

と言うわけで、幸い今は修論用のデータ取りや整理、進路の諸々(これもまたどこかのタイミングで整理したい)があり、次の実験を始めるまで時間がある。

イデアの100個くらい不自由なく出せる状態で取り掛かりたいところ。

パラダイムシフトを起こせ

最近は暇な時間ができると何となく本を手に取るようになった。
ここで言う本はいわゆる学術書などと言った括りではないものを指している。

 

教養を深めようなんて言う高尚な理由はなく、単純に面白いから読んでいるだけで、きっかけは2,3か月前に本棚から引っ張り出してぱらぱらとめくった本が面白かったからだ。

タイトルは「科学哲学者柏木達彦の多忙な夏」と言うもので、大学を舞台に教授とその生徒が対話形式で科学哲学に関するトピックについて話を進めていくもの。

 

内容についてあーだこーだ論を述べたいわけではなく(勿論面白かったので読んでみてほしい)、この本を最初に読んだ4,5年前の自分には面白さが分からなかったこの本が、今になって面白く感じているその理由を少し考えていた。


答えは奇遇にもこの本のトピックの一つになっていて、簡潔に言うと、パラダイムシフトが起きたわけだ。
自分の中で物事に取り組むときの考え方の軸が変わったという意味でのパラダイムシフトである。

 


何だそんなこと当たり前じゃあないか、と思うかもしれないけどちょっと考えてほしい。

先ほど紹介した本の中で、科学進歩についての歴史を振り返りながら2つの考え方が対比されている。

 

科学の歴史を振り返ると、様々な研究が行われだんだんと右肩上がりに知識が蓄積されてゆき、それ自体が進歩だとする累積的進歩観がまず主張されます。

こうした考え方をホイッグ主義と言います。

 

こうした考えに対し、歴史を振り返ると決して正しい知識のみが積み重なってきたわけではないと主張する人が現れます。トマス・クーンです。
彼は、皆が注目するような科学的業績を誰かが上げると、周りの研究者がその業績を「模範」とし、以後の仕事が行われることになると考えました。
そのような模範となるような仕事の基本的な考え方、発想をパラダイムとしました。

しかしパラダイムに従って研究を進めていくとどうしても矛盾が生じます。天動説で天体の動きを説明しようとしたピタゴラス派のパラダイムでは彗星や新星を説明できなかったことなどがいい例でしょう。

このような矛盾を説明できるように新たなパラダイムがどこからともなく生まれることによって、科学は断絶的に進歩すると彼は考えました。
これがパラダイムシフトです。


人間の意識についても毎日変わっていくという考え方もできます。

ただ自分はそうは思わない、人間と言うものは来る日も来る日も大体同じような考え方の軸を持っており、自分のもつ仮説に基づいてあらゆる物事を評価、判断している。

しかしある日、自分の価値判断、評価基準では説明できないような事象に出会い、そのような時、自己のパラダイムシフトが起こり新たな仮説が生じる。

仮説が変われば感じ方も結論の出し方も何もかもが変わる。

 

人間の成長は連続的に起こるものではなく、パラダイムシフトのようにある日突然大きく起こるものだろう、と言うのが自分の意見だ。

 

一度読んで、面白くないからと積んでいた本がある日読み返すと面白く感じるのも、きっと自分の中でこの4,5年の間に何回もパラダイムシフトが起こったのだろう。

そう考えると自分の成長を少しなりとも感じられて、なんだか嬉しくなってくる。


陸上競技において考えてみよう。
他人の意見を理解できないとき(特に競技力に差がある他人からのアドバイスが理解できないとき)自分にはわからない、合わないと捨ててしまいがちだが、いつかパラダイムシフトが起きて、その身体感覚が分かる日が来るかもしれない。大事にとっておこう。


こう考えると、他人の意見を聞くときも注意しなければいけないことが分かる。なぜなら、同じ言葉でもパラダイムが違えば意味するところは違う可能性があるからだ。
陸上に限って言えば、「」や「重心」、「接地」などの言葉は人によって指す意味がかなり違うように感じるので、意見を聞く人におけるの定義を言語化してもらった後じゃないとかなりの確率で誤解を生じる。(そもそもの定義が曖昧説もある)

 


もちろん、自分の中のパラダイムシフトを起こすためには、自分の今の感覚では説明できない現実に常に目を向け、解決しようと新しい仮説を立て検証するという操作が必要なことは想像に難くない。

 

こうしてみると、他人の身体操作感覚を理解しようとする陸上競技における試みは異文化理解にも近いものを感じる。どうやって言語の違う他人の考えを深いところで理解するか、果てしない試みだ。

近況

久しぶりの投稿になってしまった、言い訳をするとこの数週間は諸々が何となくうまく噛み合わずだった。

 

まず7月の第一週と二週末に試合があったが、あまり芳しい結果とは言えなかった。
反省は済んでいるので感想を言うと、ある程度記録が安定している時に殻を破ることへの心理的抵抗はかなり大きいものだなぁと。


ただ今週頭の練習で好材料も見つかった、前半の200mHを24"00で入って6,7台目までを4"50以内のインターバルで回せた。
しかも努力度はそれほど高くない(9台目くらいまでは綺麗に行けそうな感じ)。この感覚をたたき台にあと2,3回競技場練習を挟んで本番に臨もう。

 


論文の方はまとめるのを急いだせいか、今読み返すとかなりintroとdiscussionが甘くなってしまっている、簡潔に言うとintroで提起した内容をDiscussionで拾いきれていない、違う言い方をするとdiscussionで主張している内容に比べてintroで風呂敷を広げすぎている。
referenceがだいぶ雑なせいで話を広げれないのかもしれない、もうちょっと詰めてあと10本くらい増えたらいい感じかも。

 


そして今日までの3日間学会に行っており、今電車で帰っている途中。
ポスターもほぼ1日やっつけ仕事で作ったせいで少しクオリティに難があったが、それなりに興味を持ってくれ、時間オーバーしてDiscussionできた。
ただやはり解析方法に馴染みが無いようで、説明をかなりしないと分かってもらえない。図や説明をもっとブラッシュアップする必要を感じた。

 

講演はGraybiel氏やBuzsaki氏など、気になっているラボの最近の動向を聞くのみでほとんどの時間をポスターに費やした。
とにかく実験がひと段落ついてしまったので新しい方向性を探らねければならないとの思いで、目を皿にして駆けずり回り片っ端から質問した、めちゃくちゃ疲れた。

 

思ったのは
誰もやって無い技術や発想で実験をやっている人が最初に目を引く、そしてやっぱり面白い。
しかしスポットライトを当てる対象を限定しすぎているものは(僕の)琴線には触れなかった。(ある程度風呂敷は広げてほしい)
問題意識がはっきりしていると議論がクリアになるので話も広がりやすい。


勿論いろいろな方法があるのだろうが、自分なりにサイエンスにこうアプローチしようっていう方法がある。
それは

”普遍的な事実に自分にしかできない技術、発想で違う切り口を見せる”

ということ。

 

そのようなアプローチをやはり探しているし、そのような研究を見るとやはり目を引くし面白いと感じる。