院生ハードラーの雑感

院生ハードラ―が比較的真面目につぶやきます。どうぞお付き合いください

パラダイムシフトを起こせ

最近は暇な時間ができると何となく本を手に取るようになった。
ここで言う本はいわゆる学術書などと言った括りではないものを指している。

 

教養を深めようなんて言う高尚な理由はなく、単純に面白いから読んでいるだけで、きっかけは2,3か月前に本棚から引っ張り出してぱらぱらとめくった本が面白かったからだ。

タイトルは「科学哲学者柏木達彦の多忙な夏」と言うもので、大学を舞台に教授とその生徒が対話形式で科学哲学に関するトピックについて話を進めていくもの。

 

内容についてあーだこーだ論を述べたいわけではなく(勿論面白かったので読んでみてほしい)、この本を最初に読んだ4,5年前の自分には面白さが分からなかったこの本が、今になって面白く感じているその理由を少し考えていた。


答えは奇遇にもこの本のトピックの一つになっていて、簡潔に言うと、パラダイムシフトが起きたわけだ。
自分の中で物事に取り組むときの考え方の軸が変わったという意味でのパラダイムシフトである。

 


何だそんなこと当たり前じゃあないか、と思うかもしれないけどちょっと考えてほしい。

先ほど紹介した本の中で、科学進歩についての歴史を振り返りながら2つの考え方が対比されている。

 

科学の歴史を振り返ると、様々な研究が行われだんだんと右肩上がりに知識が蓄積されてゆき、それ自体が進歩だとする累積的進歩観がまず主張されます。

こうした考え方をホイッグ主義と言います。

 

こうした考えに対し、歴史を振り返ると決して正しい知識のみが積み重なってきたわけではないと主張する人が現れます。トマス・クーンです。
彼は、皆が注目するような科学的業績を誰かが上げると、周りの研究者がその業績を「模範」とし、以後の仕事が行われることになると考えました。
そのような模範となるような仕事の基本的な考え方、発想をパラダイムとしました。

しかしパラダイムに従って研究を進めていくとどうしても矛盾が生じます。天動説で天体の動きを説明しようとしたピタゴラス派のパラダイムでは彗星や新星を説明できなかったことなどがいい例でしょう。

このような矛盾を説明できるように新たなパラダイムがどこからともなく生まれることによって、科学は断絶的に進歩すると彼は考えました。
これがパラダイムシフトです。


人間の意識についても毎日変わっていくという考え方もできます。

ただ自分はそうは思わない、人間と言うものは来る日も来る日も大体同じような考え方の軸を持っており、自分のもつ仮説に基づいてあらゆる物事を評価、判断している。

しかしある日、自分の価値判断、評価基準では説明できないような事象に出会い、そのような時、自己のパラダイムシフトが起こり新たな仮説が生じる。

仮説が変われば感じ方も結論の出し方も何もかもが変わる。

 

人間の成長は連続的に起こるものではなく、パラダイムシフトのようにある日突然大きく起こるものだろう、と言うのが自分の意見だ。

 

一度読んで、面白くないからと積んでいた本がある日読み返すと面白く感じるのも、きっと自分の中でこの4,5年の間に何回もパラダイムシフトが起こったのだろう。

そう考えると自分の成長を少しなりとも感じられて、なんだか嬉しくなってくる。


陸上競技において考えてみよう。
他人の意見を理解できないとき(特に競技力に差がある他人からのアドバイスが理解できないとき)自分にはわからない、合わないと捨ててしまいがちだが、いつかパラダイムシフトが起きて、その身体感覚が分かる日が来るかもしれない。大事にとっておこう。


こう考えると、他人の意見を聞くときも注意しなければいけないことが分かる。なぜなら、同じ言葉でもパラダイムが違えば意味するところは違う可能性があるからだ。
陸上に限って言えば、「」や「重心」、「接地」などの言葉は人によって指す意味がかなり違うように感じるので、意見を聞く人におけるの定義を言語化してもらった後じゃないとかなりの確率で誤解を生じる。(そもそもの定義が曖昧説もある)

 


もちろん、自分の中のパラダイムシフトを起こすためには、自分の今の感覚では説明できない現実に常に目を向け、解決しようと新しい仮説を立て検証するという操作が必要なことは想像に難くない。

 

こうしてみると、他人の身体操作感覚を理解しようとする陸上競技における試みは異文化理解にも近いものを感じる。どうやって言語の違う他人の考えを深いところで理解するか、果てしない試みだ。